2012年12月25日火曜日

たった一人で暴力団と戦った主婦… 忘れがたき「マルタイの女」

 今年も多くの方が鬼籍に入られたが、堀江ひとみさんの訃報にはいささかの感慨がある。4月に静岡県の病院で77歳の波乱の人生を閉じたことを、最近になって知った。

 堀江さんは「マルタイの女」と呼ばれた。伊丹十三監督に同じ題名の映画があるが、「要保護対象」を意味する警察用語である。たった一人で暴力団を相手に戦った主婦、と言えば、思い出す人も少なくないだろう。

 事件は昭和60(1985)年9月23日、兵庫県尼崎市で起きた。園田駅前のスナックで暴力団組員による発砲事件があり、たまたま現場に居合わせた堀江さんの一人娘のまやさん(当時19歳)が流れ弾で死亡したのだ。

 この年、関西は阪神タイガースの21年ぶりの優勝に沸く一方、山口組と一和会の暴力団抗争が激化して、興奮と緊張が同居していた。

 交通事故かと思って病院に駆けつけた堀江さんは、待ち受けた刑事の姿にすぐにピンときた。そして、ほどなく息を引き取ったまやさんの亡骸(なきがら)に「お母さんが必ず敵を討ってあげる」と誓った。

 実行犯の組員は逮捕された。だが、それだけでは堀江さんの気が済まなかった。暴力団は組織である。組員は組長の命令で動く。ならば組長に責任を取らせなければ-。

 組長の使用者責任を問う損害賠償請求の訴訟を起こしたのだ。とてつもない勇気を必要とする行動だった。その時から「マルタイの女」になった。

 組長が訴えられた腹いせか、それとも訴訟を取り下げさせるためか、執拗な嫌がらせ、いや、脅しが繰り返された。自宅には脅迫電話がひっきりなしにかかる。電車を待つ駅のホームで突き落とされかけたことも一度や二度ではない。

 まやさんの位牌を抱いて出廷した裁判所では、警護にあたる尼崎北署の捜査員が周囲を固めているのに、暴力団関係者が威圧的に振る舞い、堀江さんに向かって突進してきた。「いくらヤクザでも位牌を抱えた遺族には道を開けるもんや」と捜査員もあきれた。

 それでも堀江さんはひるまなかった。ついには服役していた実行犯の組員から「組長の命令でやりました」という証言を引き出した。弁護士も「難しい」と言った訴訟は、裁判所の和解勧告を受け入れ、実質勝訴で終わった。

 以上は8年前の小紙連載「凛として」から抜粋した。毅然として、誇り高く生きた35人の日本人を取り上げたが、企画を統括した筆者には、堀江さんの回がもっとも印象深い。

 付け加えると、堀江さんは勝ち取った和解金で暴力団犯罪の被害者を支援する「まや基金」を創設した。さらに「暴力団被害者の会」の会長を務めた。
 特筆すべきは、全国から寄せられる講演依頼は尼崎北署が窓口になり、どこへ行くにも捜査員が同行した。単なる警護対象というだけでなく「この人には指一本触れさせん」と言わせたのは、堀江さんの思いと人柄だろう。

 そもそも暴力団という非合法な存在に民法の使用者責任が当てはまるかは、法律の専門家も懐疑的だった。しかし、その後は組長の使用者責任を認める判決が相次いで出されている。

 堀江さんは画期的な先鞭(せんべん)をつけた。あらゆる法令を適用して追い詰める、は暴力団追放の合言葉である。

 だが、暴力団はなくならず、無法はエスカレートするばかりだ。とりわけ北九州を中心に市民を巻き添えにした抗争が果てしなく、暴力団排除を掲げた飲食店なども標的にされている。

 かけらでも堀江さんの勇気を受け継ぎたい。

参照:産経新聞

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