アリバイとは現場不存在の証明だ、と辞書にある。犯行のあったその時その場所に、私は存在していませんでした。言うまでもないが、アリバイ証明には「その時」の正確さが欠かせない。逆に時間に誤りがあれば、だれでも犯人になってしまう。事件とは無関係の男性を大阪府警北堺署が誤認逮捕した問題は、防犯カメラの「狂った時計」を妄信し、アリバイ確認を怠った結果だ。白昼夢を覚ましたのは、昨年12月に弁護士登録したばかりの新人弁護士。推理小説さながらの独自調査で捜査の矛盾点を浮かび上がらせ、「真実」に行き着いた。「彼は絶対やっていない」。
■午前5時39分
1月13日、日曜日の早朝のことだ。堺市西区のセルフ式ガソリンスタンド(GS)で、24・8リットル(販売価格3479円)のガソリンの支払いに盗難カードが使われる窃盗事件が起きた。
店側の販売記録には、ノズルを給油機に置いた(給油を終えた)時間が印字される仕組みだった。そこには「午前5時39分」と記載されていた。
防犯カメラには車に給油する男性会社員(42)の姿が写っていた。表示時間は「午前5時42分」。次に車が来たのは、その数分後だ。
事件は北堺署の直轄警察隊が担当した。街頭犯罪の警戒が主な任務で、捜査経験の少ない若手が中心だ。販売記録の「5時39分」を犯行時刻とすると、一番近い給油者は男性ということになる。同隊は早々と男性犯人説に傾き、記録とカメラの時間のずれをこう結論づけた。
「(カメラは)3分進んでいる」(同署作成の捜査報告書)
男性は4月24日、窃盗容疑で逮捕される。85日間に及ぶ勾留生活の始まりだった。
■ETCのアリバイ
最初の逮捕容疑は1月12日夜~翌13日朝の時間帯に、堺市北区のコインパーキングで駐車中のレンタカー内から給油カードを盗んだ、というもの。さらに、このカードを使ってGSで給油したとして5月15日に再逮捕される。
「身に覚えがない」「私はやっていません」。男性は一貫して犯行を否認。大阪地検堺支部は最初の容疑については不起訴としたものの、6月4日に再逮捕分の窃盗罪で男性を起訴した。
男性の周囲に着々と築かれていく冤罪(えんざい)の壁。弁護人となった赤堀順一郎弁護士は6月下旬、男性の妻と弁護方針について協議しながら、どうすれば無実を証明できるか、考えあぐねていた。
福音は妻の一言とともに訪れる。「事件のあった日の朝、高速道路を使っています」。赤堀弁護士は阪神高速堺出入口の自動料金収受システム(ETC)の履歴を取り寄せた。通過時間は「午前5時40分」となっている。起訴状記載の犯行時刻から、わずか1分後だ。現場のGSから堺出入口までの距離は約6・4キロ。仮に起訴状通りであれば、男性は時速360キロで移動したことになる。
あり得ない-。赤堀弁護士はすぐさま検証作業に入った。同じ日曜日の朝、同じ車でGS-堺出入口間を2度走行。道路や信号の状況から、1分で行き着くのは不可能であることがはっきりした。ETC履歴は男性のアリバイ証拠ともいえるものだった。
■3つの時計
赤堀弁護士は捜査側の「ストーリー」を突き崩しにかかる。調査の焦点としたのが犯行時刻だ。
現場GSには「3つの時計」が存在していた。(1)店の販売記録(犯人が給油機にノズルを置いた時間)(2)防犯カメラ-に加え、(3)給油する車のナンバーを読み取る別のカメラがあった。
盗難カードが使われた時刻は(1)=5時39分。一方、男性が給油する映像の表示時間は(2)=5時42分(3)=5時41分。時計はばらばらだった。
カメラの表示時間がずれるのは、珍しいことではない。通常の捜査は、まずカメラの誤差を標準時に補正し、正確な時系列に置き換えるところから始まる。
ところが北堺署の捜査では、こうした修正が行われた形跡はまったくなかった。すべて(1)(5時39分)を前提に(2)(5時42分)=3分進んでいる(3)(5時41分)=2分進んでいる-と判断していた。
赤堀弁護士はGS店長の立ち会いのもと(2)の表示時間とNTTの時報を照合。実際は3分ではなく、8分程度ずれていることが判明する。つまり、(2)(5時42分)を標準時に補正するとマイナス8分の5時34分となる。
さらに赤堀弁護士はGSの販売記録を独自入手して分析。盗難カードが使われた直前の5時34分に、現金給油している車があることが明らかになった。
男性の妻は言った。「このGSを利用するときは、いつも現金払いです」。赤堀弁護士は男性の給油時間が5時34分だったと確信する。無実が決定づけられた瞬間だった。
赤堀弁護士はこうした調査結果を初公判が迫った7月10日に検察側に提示。あわてた検察は証拠を改めて精査し、同17日に男性を釈放した。その際、検察幹部は赤堀弁護士にこう語ったという。「こちらの間違いだった。そのような方を被告人席に座らせるわけにはいかない」。検察は29日、男性の起訴を取り消した。
■ずさん捜査
赤堀弁護士の独自調査を待たずとも、男性の犯人性に疑問を生じさせる状況はいくつもあった。
事件当日、男性は家族を乗せてスキー旅行に出発。出がけに給油に立ち寄った。家族とこれからスキーを楽しもうという人が、なじみのGSで、ナンバーも顔も隠さずに、盗難カードを使うだろうか。しかも、数時間前に車上荒らしで盗まれたばかりのカードを。男性に定収があったことも犯人とするには不自然さを感じさせる要素のはず。
否認事件であれば、捜査には慎重に慎重を期すのが普通だ。容疑者の供述がなくとも犯行を裏付けるだけの客観証拠をそろえなければならない。
にもかかわらず、北堺署は現場周辺のNシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)すら確認していなかった。また、男性の直後に訪れた給油者の人物特定も十分に行っていない。男性が犯人と思い込んでいたとしても、直後の給油者の犯人性を消しておく「つぶしの捜査」は当然必要だったはずだ。直轄警察隊の経験不足は置くとして、幹部らの捜査指揮はなぜ機能しなかったのか。
男性の誤認逮捕が明らかになった今、真犯人の可能性がもっとも高いのは直後の給油者だ。府警は現在、再捜査中だが、この人物にたどり着くことはできるのか。初動捜査のずさんさは、今度は真相解明を阻む障壁として立ちはだかっている。
赤堀弁護士は「ETC履歴や販売記録の収集は本来、警察や検察がやるべきことだが、その職責すら果たしていなかった。司法修習生でも考えられないようなミスだ」と話す。
赤堀弁護士は昨年12月に弁護士登録したばかりの新人だ。「司法修習生でも」の批判は決して大げさではない。
参照:産経新聞
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